昭和43年7月16日 夜の御理解
信心を頂いて、いつも心の中に神様を生き生きとして頂いておくということは、なかなか、実を言うたら難しい。自分の心の中に忘れんように忘れんようにと言うて、心がけておるといったようなことじゃないのですから、いつも神様が自分の心の中に生き生きと働いてござるということですから、いわゆる仏教で言う同行二人である。同行二人いつも、神様と自分とは共にあるという、これは言葉には易く、または理屈を言えばすぐ分かることでございますけれども、そういうふうに神様を頂ききっておくということは非常に難しいことです。
そこにはもう、いつも乳のみ子が母親のところにあるように、いわゆる心安しという心がそういう実感がなからなければ神様を(すえて?)おらんということにはならんのですからね。だからその、それが頂けれるということになるということは、この正月の願いに栄四郎が書いておりましたね、お父さんのことについて。
家のお父さんはもう、お風呂へ入っても何でもいつでも、金光様有り難うございます言いよんなさるが、きっとそのお父さんの心の中には金光様が宿ってござるのじゃろうというようなことが書いておった、ね。言うならばそういうふうに、まあ私とてもまあ完璧ということじゃないですけれども、まあだんだんそれが自分の心の中に(しよなって?)きて、いつも神様に恵まれておる実感。また、実際におかげを受けておるという事実がなからなければ、私は神様をいつも頂いておるとは、言わば言えないのです、お道で言う、その神様は。
★今日はあの、ある方が参って、みえてからあることのお届けさしてもらいよりましたらね、ちょうどあの、3つ4つの、まあいわゆるきょろきょろ盛りですね、子供を母親がこう、手を引かずに後ろからついて来よるけん、どこさ行くとじゃろうかちゅってその子供は、探し探しその道を歩いておるところを頂いたんですけれども。
せめてね、乳のみ子が母親の懐の中に抱きかかえておるような実感、求めればそこにはもういつも乳房がある。いったようなおかげとは、まではいかなくてもね、3つ4つの子供を連れておるぐらいの心がけがいつもいるんじゃなかろうかと私は思いました、ね。きょろきょろしておるから親が(みみだん?)をすると、もうどこさ行くか分からん。それで、いつもその、後ろを見たり前を見たりして、子供を自分の手元から離すまいとして、母親が努力するような努力と、精進するような精進がね、信心の上にも、私は同行二人とか、神われと共にありといったような、実感を頂かせて頂くもうひとつの過程においてね、そのくらいな、気持ちが本当じゃなかろうか。
もう子供の方が早よ先に帰っておってから、あらあんたもう帰っとったの、お母さんそれまで忘れてしもうとったちゅうごたる信心じゃいけんていうことですね。どうぞ。
明渡真